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<ノベル>
ACT.1★逃げ水
未だ早朝だというのに、真夏の太陽は、殺気を孕んだ熱を街に放射している。
暑く揺らめく空気を割って、長身の女が歩く。照りつける太陽よりも鮮やかな、燃えさかる炎にも似た赤い髪。鋭利な刃物の切っ先を思わせる視線と、スーパーモデルさながらのその美貌。
街路に真紅の蜃気楼が現れでもしたのかと、ひとびとは振り返る。
アスファルトには、逃げ水が浮かぶ。
どんなに近づこうとしても、同じ距離を保ったまま逃げていく、晴れた日の幻。
この美しい女は、これからどこに行くのだろう?
一路、空港から飛び立って、華やかな色彩が乱舞するファッションショーへ出演に?
それとも、そのまなざしに相応しい密命を秘めて、遥か遠い砂漠の国へ?
――否。
ひとびとは、本当は知っている。それは毎朝、「ケーキハウス チェリー・ロード」に向かうリカ・ヴォリンスカヤの出勤風景であることに。
皆の注視をそよ風のように流し、鼻歌まじりにリカは歩く。
額に浮かぶ汗を、ハンカチで拭いながら。
自身が輝く恒星であることに、気づかないふりをして。
★ ★ ★
「ジョージは遅いわね。……どうしたのかしら?」
いつもどおりの時間に到着したリカは、閉まったままのシャッターの前で逡巡していた。そろそろ営業開始時刻だというのに、チェリー・ロードの店長、譲二がいっこうに姿を見せないのである。
ここに勤め始めてからそろそろ一年になるが、こんなことは初めてだ。
ケーキハウスの朝は早い。譲二はいつも、リカが出勤する頃にはすでに焼きたてのケーキを店頭に並べ終えているのが常だった。洋酒漬けのダークチェリーをアーモンドベースの生地に埋め込んで焼き上げた、定番の一番人気、チェリーケーキ。カスタードクリームに混ぜた刻みチェリーがアクセントの、香ばしいシュークリーム。さわやかなレアチーズケーキをぱりぱりの食感のホワイトチョコレートでコーティングし、ラズベリーとチェリーをあしらったキューブ状のプチケーキ。たっぷりのチェリー入りクリームをシフォンでサンドし、凍ったままを食べる、夏場に嬉しいアイスチェリーシフォン。
店内に入ったとたん、上等のバニラビーンズと甘酸っぱいチェリーの香りに包まれるのは心地よいのだが、リカは常々、わたしもケーキを作るお手伝いがしたいからもっと早く来るわね、と、譲二に言っていたものだ。しかし、何故か譲二は顔を引きつらせ、
『そ、それには及びません。寝不足はレディの肌によくありませんし、どうかゆっくりご出勤いただいて絶対に厨房には近寄らず材料には触らないよう……いえその、美しい手が荒れたりなんかしたら一大事ですから!』
などと、リカを気遣ってくれていた。
そう、譲二は善良で正直で優しい、得難い店長である。アメリカンカントリー調の可愛らしい店構えが気に入って、アルバイトさせて欲しいと頼みこんだ一年前を、ふと思い出す。
――わたし、ケーキ屋さんで働いてみたかったんです。こういうオンナノコらしい仕事ってぴったりだと思うの。雇ってください♪
什器から落ちかけたシュークリームを、だだだだっと壁に一ダースばかり突き刺したナイフの背で食い止めてから、にっこり微笑んだリカの可憐なお願い(注:リカの主観)に、
――ありがとう! そうとも、ぼくはまさしく君のような、可愛い砂糖づけチェリーを思わせる店員をずっと募集していたんです! 繊細なレースのフリルつきエプロンがよく似合うタイプのね。お菓子作りのセンスもありそうですね。いつでも厨房を提供しますので、パティシエのレッスンに使ってください。そのうち君の作ったケーキを店頭に出してみたい!
……と言わんばかりの表情で何度も頷いてくれた(注:くどいようだがリカの主観)のだった。
「遅刻なんてファッキンなこと、ジョージらしくない。解せないわね」
店のマスターキーを持っているのは譲二だけだ。ふたりの出勤時間に差があるため、リカのほうは鍵類を持たされてはいない。その必要がなかったからだが……。
しかし、今は。
首筋がちりちりと粟立つような、異変を感じる今は。
鍵が――いや、鍵に代わるものが、必要のようだ。
どこからともなく取りだした細身のナイフを、シャッターの鍵穴にあてがう。
可愛いパティシエにあるまじき、堂に入った手つきだが、幸い目撃者はいない。
単純な造作のシャッターは、がらがらと音を立て、あっさり上がっていく。
「………?」
ナイフを手に、リカは首を捻る。鍵穴がすでに、壊されている感触があったのだ。
――誰かが、店の中に侵入した?
チェリー・ロードの飾り文字が躍る入口扉にも、鍵は掛かっていない。力いっぱい扉を開けたリカは、弾丸のような勢いで店内に飛び込んだ。
中は凄惨なことになっていた。
作りかけのケーキがつぶされて、あちらこちらに散乱している。
床に広がる、血のような染み。
(……ジョージ!)
はっと青ざめたが、よく見れば踏みつぶされたダークチェリーだった。
おそらく譲二はいつもどおり、陽が昇るよりも早く店に来てケーキを焼きながら、開店準備を始めていたのだろう。
そこに謎の賊が押し入って、譲二を拉致したのだ。
(でも、誰が? 何のために?)
その答は、厨房を確かめた瞬間、わかった。
作業台いっぱいに、メッセージが残されていたからである。
悪趣味にも、生クリームから絞り出された白い文字が躍っている。
☆☆〜☆☆☆〜☆☆〜☆☆☆〜☆☆〜☆☆☆〜☆☆
親愛なるリカ
君を秘書として再雇用したい。
本日23:10に、聖林通りの丸銀ビルの屋上に来たまえ。
報酬は、Mr.ジョージの命だ。
──ウィレム・ドレッセル
☆☆〜☆☆☆〜☆☆〜☆☆☆〜☆☆〜☆☆☆〜☆☆
「……ドレッ………!」
リカの叫びは、ひゅうと喉に詰まった。
おぞましい、思い出したくもない、その名前。
リカがあの世界で殺し屋だったとき、無情なボスであった彼。やがてはリカの背中を撃ち抜いて殺す役回りの――
(ドレッセルが実体化した……。そして)
容赦のない手段で、リカを再び殺し屋に引き戻そうとしている。
白く鎌首をもたげるのは、忘れようとしていたはずの悪夢。
まるで、奇妙に歪んだ蜃気楼のような。
ACT.2★あなたに最後のあいさつを
(どうしよう……)
店のシャッターを降ろし、リカは茫然としながらも歩き出した。行く当てなどないし、考えもまとまらないが、今はここにいたくない。
それでも、レースのエプロンは身に着けていた。甘い匂いで満たされたケーキハウスで楽しく働き、笑顔で接客するための戦闘服。これだけはまだ、脱ぎたくなかったのだ。
気づいたときには、銀幕市自然公園にいた。
蝉の声が降りしきる中、ベンチに腰掛けて頬杖をつく。
こどもたちがはしゃぐ声にふと顔を上げれば、帆を張った巨大な海賊船が見える。
ここが大海原の真ん中であるのかと錯覚しそうな精巧さに、二、三度目をしばたたかせてから、ようやくそれが、映画に出てくる船を模した遊具であることに気がついた。
(あの映画、パイレーツ・オブ・パイレーツっていったかしら……)
真昼の気温はうなぎのぼりで、空気が熱風のようだ。
陽炎に覆われて、海賊船もぼんやりと現実感を失う。ぽう、と、火がともったように見えたのも、小さな動物たちが甲板を駆け、いっぱしのキャプテンと乗組員として冒険に夢中な様子も、蜃気楼だろうか?
――そうね、ホントはわかってるの。実体化した、その日から。
これは魔法。不安定極まりない魔法。
魔法は、いつか解けてしまう。だって今のわたしは、ホントのわたしじゃない。
だけど、「本当のわたし」って、いったい何?
ぎゅっと自分を抱きしめても、震えは止まらない。
どうすればいい? ジョージを見殺しにするの?
そうして、他のケーキ屋を探すの? 同じように可愛い、ステキなお店を。
――だめ!
それじゃ殺し屋以下だわ。「赤い髪の魔女」の、ふたつ名に反する。
……ふふ。
リカは力なく笑った。
この期に及んでの拠り所が、殺し屋の美学だなんて。
ああ、でも。
最後に、あなたに逢いたいわね。
「……リカ? おい、リカなのか?」
熱い空気が、ゆらりと流れ――
たった今、リカの脳裏に浮かんだ青年が現れた。
ラフに着崩した、ジャケットとシャツ。襟元から覗くのは、ダガーのモチーフがついた、シルバーのチョーカー。心配そうに細められているのは、茶色の双眸。
★ ★ ★
朝方、株のチェックを終えるなり、神宮寺剛政は外出を決め込んだ。屋外はサウナもどきの熱風が吹き荒れているが、剛政としては、彼が言うところの「クソジジイ」とあまり一緒にいたくないのであった。
のんびり散歩するには、かなりハードボイルドな気温だ。適当にそこら辺をぶらついてから、カフェ・スキャンダルにでも行くか。目的地に悩んだあげく、何気なく銀幕市自然公園に足を向け――
(……あの女は)
剛政は、我が目を疑った。
シャープな長身に、全然ちっともまるっきり似合っていないレースのエプロンをつけた、鮮やかな赤い髪の女が、所在なげにベンチに腰掛け、うなだれているではないか。
(リカに似てるけど……違うよな? いやしかし、いくら銀幕市に変人が多いからって、あんな素っ頓狂な格好をした女が、そうそう何人もいるとは思えないしなあ)
近づいて、声を掛けてみる。
「……リカ? おい、リカなのか?」
「……剛政」
やはり、リカだった。だが、普段の彼女を知るものには信じられぬほど、憔悴した風情は何としたことだろう。
怯え切った、蒼白な顔。何か重大な悩みを抱えているように灰色の瞳が見開かれ、長い睫毛が震えている。
「なにしてんだ、こんなとこで。店は?」
「サボりよ」
「いつも迷惑なくらい、斜め89度にケーキ屋が大好きなおまえがか?」
「そんな気分なの」
「暑いの苦手なくせに、公園のベンチで?」
「そうよ」
「エプロンつけたまんまでか?」
「……………そうよ」
「隣、いいか?」
「……どうぞ」
少し間隔を取って、剛政はベンチに腰を下ろす。
話題を探して話しかけても、うつむいたリカは、ぽつりぽつりとしか答えない。
暑いな。暑いわね。
何かあったのか? 別に何も。
最近、どんな依頼を受けた?
受けたっていうか……にこにこタウンで、テロリストと、ちょっとね。
リカは不意に顔を上げる。その視線は公園の前を横切る道路に注がれ、アスファルトに浮かぶ逃げ水を追いかけている。
あれは、蜃気楼。
逃げても逃げても。
近づいても近づいても。
それは永遠に、同じ距離を保ったままだ。
消して交わらぬ、平行世界に似て。
「……決めた。行くわ」
「待てよ! いったい何だっていうんだ。変だぞ、おまえ」
いきなり立ち上がり、リカは歩き出した。
理由を問う剛政に、
「もう、逢えないかも」
それだけをぽつりと、言い残して。
ACT.3★まるで映画のように
杵間山に陽が落ちて銀幕広場がライトアップされても、街の熱気は退かない。
薄雲に覆われた空に星は見えず、かろうじて三日月のシルエットだけがその存在を示している。今宵は月も、暑さにあえいでいるらしい。
丸銀ビルの前にじっと佇んで、リカは時を待っていた。
腕時計に目を落とす。
ちょうど23時を回ったところ。そろそろ約束の時間だ。
エレベーターに乗り、屋上へ。
……足取りは、重い。
だが、行かなければ。どんなに会いたくない相手であろうと。
「ああ、久しぶりだ。よく来てくれたね」
手下七人を後ろに従えて、ウィレム・ドレッセルは不敵に笑い、ゆっくりと片手を差し出す。
このボスは変わらない。握手をしながら、空いた手に銃を隠し持つ芸当ができる男だ。
リカは唇をきつく噛みしめ、ドレッセルの手を忌まわしそうに払いのけた。
「――ジョージを返して」
「ははは」
愉快な冗談を聞いたとでもいうように、ドレッセルは手をさする。
「隣のビルを見たまえ」
「……!!」
丸銀ビルの隣にそびえているのは、巨大な時計台がトレードマークの、ゴールドスクエアビル。
その長針に――吊り下げられている人影が見える。
「あれはジョージ? ……なんてことを」
「いいかい? 今のところはかろうじてあの長針に引っかかり、バランスを保っているが、25分になって角度が変わると、彼は滑り落ちる。落ちるとどうなるか、もちろんわかるね? 彼は真っ逆さまに聖林通りに叩きつけられ、無惨に死ぬ。床に落ちて踏まれた、ダークチェリーみたいにね」
「やめて……! やめて、お願い! 彼は関係ないじゃない。ごく普通の、ケーキ屋さんなのに」
「助けてあげても、いいんだよ」
我が意を得たりとばかりに浮かぶ、凄惨な笑み。
「この薬を飲んでくれたらね」
ドレッセルは銃の代わりに、薬入りの青い小瓶を隠し持っていた。
その瓶には見覚えがある。洗脳薬だ。
記憶中枢を麻痺させ、目の前の相手を神格化し、絶対服従してしまう効果を持つ――
(……これを飲めば)
何もかも忘れてしまう。銀幕市で過ごした一年が、なかったことになる。
そしてリカは、殺し屋に戻るのだ。
(でも、ジョージが助かるのなら)
リカは頷いた。その手に小瓶が渡される。
震えながら蓋を開け――ゆっくりと口へ運ぶ。
まさに液体が流れ込もうとした、そのとき。
「リカ! 飲むな!」
目にも止まらぬ速さで駆けてきた剛政が、手首を押さえた。
青い小瓶は叩き落とされ、粉々に砕ける。散った飛沫は、ドレッセルの頬に飛んだ。
「剛政……! どうしてここに」
「馬鹿かおまえは! らしくないことをするな!」
「わたしらしくないってどういうことよ!」
「自分が犠牲になりゃいいとか考えることだよ。様子がおかしかったからチェリー・ロードへ行ってみたら、何のことぁない、人質取られてんじゃねえか」
「ナイト登場かね? ……しかし、これでリカを取り戻せると思うのかね?」
ドレッセルは余裕を崩さずに、隣のビルを指さす。
剛政の目が、凄まじい光を帯びた。こんな卑劣な手段を取る輩を、彼はことに激しく嫌悪するのだ。
「……るせぇ! 今のリカはなぁ! ステキなパティシエなんだよ。可愛いエプロンがどんなに似合わなかろうが、作るケーキときたら、ひとくち食えば地獄巡りができる代物だろうがな!」
「ちょっと剛政。それって――きゃ!」
一応抗議しようとして、リカは両手で口を押さえる。こうしている間にも、長針は進んでいるのだ。
譲二を吊している縄は、徐々に下へと滑っていく。
「ジョージが!」
「はん。25分になる前に、こいつらをぶっ飛ばせばいいんだろ?」
剛政の両腕を、赤いオーラが包み込む。
みるみるうちに髪が銀色に変わっていく。茶色の双眸は、滴るような赤に染まる。
派手な戦闘が、始まった。
手下たちが構えたマシンガンが轟音を放つ。
人間離れした動きで、剛政は銃弾から身をかわす。リカは手下連中の手元を狙い、続けざまにナイフを突き立てる。
銃を取り落として、しゃがみ込む手下は三人。
「いいぞ、リカ! その調子だ」
「あ」
「どうした」
「あと一本だけしかないわ」
「……おいこら」
しょうがないなとばかりに、赤いオーラを纏った腕で、まずは手下どもの襟首をむんずと掴む。
タコ殴りに殴って、
サッカーボールのように蹴って、
渾身の力を込め、空に向かって放り投げる。
ひととおり手下をお星様にしてから、剛政は指を鳴らし、ドレッセルに近づいた。
ドレッセルは無表情だが、内心の焦りが伝わってきた。
何しろ、退路は断たれたのだ。
「覚悟しろ! 楽にプレミアフィルムにしてもらえると思うなよ!」
風景が、変わった。
ビルの屋上ではなく、星ひとつない夜の公園に。
剛政の手のひらに、赤い目が現れる。
ロケーションエリアの展開――嫌がっていたはずの、力の解放。
剛政はそれほどに、腹を立てていたのだ。
リカを殺し屋に引き戻そうとした、ウィレム・ドレッセルに。
ACT.4★そして悪夢は星になる
「やれやれ。世話がやけるこった。じゃあ、またな」
プレミアフィルムを拾い上げ、剛政はリカに背を向ける。
「あ、あの……。剛政。そのう」
そばに駆け寄って、しかしリカは、モジモジとうつむく。
詫びなければならない。
感謝の気持ちも伝えなければ。
だが、どう言えばいいのか、わからないのだ。
あたりは未だ、夜の公園のままだ。
時計台ならぬ、銀杏の木のてっぺんに引っかかっている譲二が叫ぶ。
「えっと〜。お取り込み中悪いんだけどね。このままだと落ちちゃうんですけど!」
リカはまた明日から、嬉々としてケーキハウスに勤めるだろう。
そして可愛いパティシエとして、美味しいケーキ(主観的には)を作るのだろう。
それは、歪んだ蜃気楼を引き裂いて、つかまえられないはずの逃げ水をその場所にとどめ、誰かを潤す――ひとつの奇跡。
――Fin.
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クリエイターコメント | 初めまして! ご指名いただきましてありがとうございます。 常々物陰から(?)かっこいい女性だなあと思っていたリカさまですが、何とも可愛くて女の子らしい一面とのギャップがとてもキュートです。剛政さまももちろん、それはわかっていらっしゃいますよね、ね?(ナイフ構えながら) |
公開日時 | 2007-09-09(日) 10:20 |
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